DEEPな店紹介
1.Le Pied Noir 誕生
実はあまり知られていないのですが、シャンパンバー“ル・ピエ・ノワール”は、東京・代官山にあった“バー・スワミー”の支店として、1986年5月に京都に開業しました。
当時のうたい文句は「シャンパンバー」ではなく、今も看板に描かれている「Champagne
et Caviar」であり、シャンパンとキャビアを売る店というスタートだったのです。
いくら景気が良かったとはいえ、シャンパンといえば『クリスマスにケーキ屋さんの軒先に並ぶサイダーのような炭酸飲料』という認識が一般的だった当時を思うと、実に思い切った恐ろしいコンセプトですね。
最初の経営は株式会社センチメンタル・シティ・スタジオです。飲食店を直接経営もしていたのですが、むしろ社長である馬上氏による空間プロデュースで名を馳せたグループです。
ピエ・ノワールの開業までに、『スワミー』の他、『ロータスキャフェ』(今東京にあるアレとは違います)、『東風(トンプー)』など、今はもう存在しませんが、おそらく今40〜50代あたりの、当時かなり遊んでいた方々には『おぉ!』となるような店をプロデュースしています。
内装インテリアは『聖摂社』。主催の上里義輝氏は今は故人ですが、氏と同年代の建築関係者では異能の建築家として知られる存在です。
上里氏は京都で生涯を閉じられましたが、森ビル退職までは東京に在住され、初代ピエ・ノワールである馬上氏とは東京繋がりといえます。
実際に、東京時代にも、萩原健一さんの自宅やデザイナーズブランドであった『イン&ヤン』の本社などを設計されています。
その聖説社にあって、ピエ・ノワール設計を担当されたのはソン・ビョンヒー氏です。
今は「SONG建築計画」主催として独立されています。
今ではソン氏は、京都で数多くの飲食店内装や住宅なども手掛けられ、立地や業態に対する柔軟性を維持しながらも独自の世界を構築する力量で、押しも押されもしない地位を確立されています。
オープン時の店舗運営にあたったのは、本店でもあった代官山スワミーのスタッフで、リーダーの飯塚規氏が東京と京都の両店舗の店長を掛け持ち、その片腕であった高坂二郎氏、原田健氏が交代で京都勤務するという体制でした。
東京から交替で勤務に来るスタッフのために用意された寮が「グラン・フォルム清水別邸」という物々しい名前のマンションで、高台寺の坂を登りきって、二年坂へ向かって今度は下って行った場所にありました。小説家の山村美沙さんの自宅のお向かいで、主に祇園のママさんやチーママさんが旦那さんに囲われる為に(?)建築されたマンションでした。
話が横にそれますが、高坂氏は紆余曲折の末に京都の住民となられ、現在は祇園辰巳橋の『Nexus』を経営されています。
留意すべきは、この『Nexus』こそが今をトキメク町屋改装店舗の最初であり、完成当時の設計はピエ・ノワールと同じ『聖摂社』で、上里氏はこの『Nexus』で京都市○○賞を獲得されています。
話を戻します。
現店主の私は、そういう“東京からの出張体制”だったピエ・ノワールの京都現地要員として、丁稚のような立場で現地調達された立場で、高坂二郎氏、原田健氏を直接の師匠として、シャンパンをはじめとするお酒やカクテルのことを勉強させていただたわけです。
そういえば、オープン時のスタッフユニフォームは熊谷登喜夫さんのデザインによる誂え品でした。
トキオ・クマガイはれっきとしたパリコレブランドでしたから、ひょっとしてこのピエノワ初代制服はオートクチュールだったと(強引に)言えそうです。
ブランドとしての「トキオ・クマガイ」は、登喜夫氏の死後はあちこちの資本を彷徨う運命になり、現在はバッグのブランドとして××の経営の下で名前が残っていますが、氏の作る服の大ファンだった私としては、なんとも惜しいブランドでした。どうにかしてあのテイストでスーツやシャツを復活させてもらえないものかと願ってやみません。
ともかくこのように、“ル・ピエ・ノワール”は、日本が最も血気盛んだった80年代の、世界でも最も刺激的といわれた東京から、そのエスプリを丸ごと持ち込む形で、京都という地方都市にオープンしたわけです。
当時の京都というのは、その田舎臭さではおそらくピークだったのではないかと思います。
世界でも一番刺激的な都市だといわれていた東京の輝きを、せっせと持ち込むのに忙しく、今のように、京都の持つ伝統だとか文化を外に向かって発信するという運動のちょど逆の行為に勤しんでいたように思います。
メディアに関しても、現在と比較しても恐ろしいまでに東京一極集中で、関西系や京都地場の地方情報誌である「ミーツリージョナル」、「クラブフェイム」、「リーフ」はもちろん、「サヴィ」ですら創刊前(直後かな?)だった気がします。
こうした状態の良し悪しは置くとしても、当時の「世界の東京」と「それ以外の地方都市」とでは、今よりもはるかに大きい情報のギャップがありました。
こうして、デザイン、コンセプトだけでなく、スタッフまで東京から持ち込んで、その時代の最も先鋭的なスタイルで颯爽と登場したピエ・ノワールでしたが、残念ながらその立ち上がりは予想外の苦戦となります。
この苦戦はいうまでもなく、「シャンペン?何やソレ。クリスマスにタカラブネ(地元の大衆ケーキ屋チェーン)で売ってるアレか?」という受け入れ側の認識レベルにあったわけです。
日本中がバブルのピークに向かって駆け上っていくこの時期、ピエ・ノワールの17年は、このようにして幕を開けたのでした。
参考資料
1986年の日経平均株価: 18,701円(12/27)
2.オープン間もない頃のお話
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